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郷土の先人、万代常閑について

 NPO法人和気サンシュユの会は、和気町益原地区にある和気鵜飼谷温泉「薬草園」約4千平方メートルで、約200本の薬木「サンシュユ」を育て、作秋より漢方生薬の生産を始めました。また、苗木の育成なども行うための活動拠点としています。
 益原は、旧藩主池田家の藩医万代常閑旧居地であります。
 この度、当会の「ホームページ」開設に当たり、郷土の先人、万代常閑についてインターネットを通して多くの方々に知っていただきたく準備する過程で、平成6年益原区が発行した、冊子「薬祖・万代常閑と益原 あまねく人々に尽くす心」にであいました。資料収集・編集・原案担当の大森直徳氏(現和気町長)、文章担当の上野幸子さん、挿絵担当の金光文子さん、益原区長山崎猛氏へ転載許可をお願いしましたところ、快諾して頂きました。
 このページが、多くの方々の目にとまり郷土の先人を顕彰できればと願っております。
 ご報告かたがた関係者の皆様に感謝申し上げます。

平成29年2月吉日
NPO法人和気サンシュユの会 理事長 有吉正春

挿絵

はじめに
 「越中富山の薬売り」とか「富山の置き薬」という言葉を聞いたことがありますか。
 昔から、富山は売薬で知られていました。この富山の売薬行商人が扱った
最初の薬が「反魂丹(はんごんたん)」という薬でした。全国的に有名だった反魂丹を、
富山の人々に伝えたのが「万代常閑(まんだいじょうかん)」という人です。
 万代常閑は、益原とは大変ゆかりの深い人なのです。
 万代常閑と益原との関係を調べてみましょう。

万代常閑の祖  万代家の先祖は、室町時代、将軍足利氏に仕えていました。
そして、泉州境浦(現、大阪府堺市)で代官を務め、万代(もず)村を
治めていました。

 応永の乱(一三九九年)で、大内義弘が室町幕府将軍足利義満に
反乱をおこし敗れたとき、万代家三代目の万代主計は、その謀反に
加わったとして罪にとわれました。主計は、無罪をくり返し訴えた
のですが、聞き入れられませんでした。
 土地や家財を取り上げられた主計は、しかたなく丹波の国(現、
京都府・兵庫県)に退いた後、備前の国和気郡益原村(現、和気町
益原)に移り住みました。当時益原村にあった源済寺(臨済宗のお
寺で、今は現存しない)の住職と知り合いであったため、このお寺
を頼ってきたといわれています。
 その当時、益原には「金ヶ市」とか「八日市」とかいう地名が残っ
ているように、市が立ったり、また門前町としてにぎわったりし
ていたようです。

挿絵
挿絵

 益原に住むようになった万代主計は、万代を「もず」から「ま
んだい」と読み改め、名前も常閑に変えました。そして、返魂丹
という薬を患者に与え、医者として暮らすようになりました。
 以後、代々その子孫は「万代常閑」を襲名しています。
 では、返魂丹という薬は、どのようにして生まれたので
しょうか。

延寿返魂丹の由来

 万代家初代の掃部助が、泉州境浦の万代村に住んでい
た頃のことです。異国の商船が境浦に流れ着きました。
それを見た掃部助は、その乗員を救って介抱しました。
 その夜、掃部助の夢の中に、氏神鎮守万代八幡神が現れて、

 「明朝、唐人が綿綺(美しい綿織物―この頃の日本では
珍しいものであった。)を持ってきっと謝礼にくるだろう
が、これを受け取らずに、妙薬の秘方(秘密とされてい
る薬物の調薬の方法)を受けよ。」というお告げをして消
えました。
 翌朝、夢のお告げのとおり、唐人が綿綺を持って礼に来
ました。掃部助はこれを断り受け取らなかったところ、唐
人は、一子相伝(自分の子ひとりだけに伝えること)の妙
薬の秘方を教えてくれました。これが、「万代八幡夢想の延
寿返魂丹」で代々家伝薬として伝えられ、人助けにも用い
られるようになったのです。益原に移り住んだ万代常閑は、
どのような活躍をしたのでしょうか。

挿絵

郡医者万代家先祖と
      益原村での業績

 

 池田家文書(奉公書)や万代家文書の中には、次のようなこ
とが記録されています。
 七代常閑(一五七七年没)は、天神山(現、和気郡佐伯町、
益原から北方の山)の城主浦上遠江守の夫人を治療し全治させ
たので、ごほうびをいただきました。
 八代常閑(一六三三年没)は、宰相様(備前藩主池田忠雄)
からお城へ呼ばれ、「返魂丹」を調合し献上しました。そのご
ほうびとして、和気郡岸野村(現、和気町岸野)の山林の材木
や竹、それに人夫を与えられ家を建てました。また、御紋付の
羽織をいただいています。

 十代常閑(一六七三年没)の時、出雲藩主松平出羽守が
参勤交代で和気を通るたびにお目見えをし、返魂丹を献上
するようになりました。家中の者も多く買い上げていたよ
うです。西国大名などには、古くから万代家の返魂丹が知
られていたのではないかと思われます。
 十一代常閑(一七一二年没)は、次のような活躍をしま
した。
 延宝二年(一六七四年)春と、元禄元年(一六八八年)
春には、和気地方に疫病が流行し、病死者が数多く出たの
で、藩の命により各村々へ行き治療に当たりました。
 天和二年(一六八二年)三月二日、天神山で藩主たちの
「お鹿狩り」が催されました。この時、殿様(池田綱政)

挿絵
挿絵

の御本陣は益原、少将様(池田光政)と信濃守様(池田政吉
備中鴨方藩)のお泊りは、和気村でした。そこから駕で出立
の際、益原村で常閑にお目見えを仰せつけられました。
 元禄三年(一六九〇年)に、益原村の新溝(現、益原・和
気用水)の工事が行われるようになると、作業者の病気やけ
がの治療を藩より仰せつけられました。これは、元禄四年ま
で勤めました。この益原・和気用水の工事は、津田永忠が田
原用水を造ったころ行われています。
 元禄一六年(一七〇三年)には、上道郡丸山御茶屋(現、
岡山市円山・曹源寺)へ出勤を仰せつけられ、六月に出勤し
て翌年の正月まで勤めました。
 元禄一七年正月に、藩主池田綱政が御城下の御番所(現、

岡山市森下町)に家をお貸しになったので引越しをしました。
そのとき、「延壽返魂丹」の大看板をいただいています。
 数々のはたらきにより、十一代常閑は、備前藩の藩医(郡
医者)にとり立てられました。以後、江戸時代の終わる十七
代常閑まで藩医として勤めたのです。
 明和四年(一七六七年)に、十三代常閑が益原村から和気
郡西片上村(現、備前市西片上一二八四番地)へ引越して以
後、この地で現在に至っています。現在の万代内科医院
長は、二十一代目に当たります。益原には、十二代までの万
代家の墓が今も残っています。
 十一代常閑の時、富山へ伝わったという「返魂丹」、
家伝薬だった「返魂丹」は、どのようにして富山へ伝わったのでしようか。

挿絵

反魂丹と越中富山

 江戸時代中期、富山藩主前田正甫は、藩の財政を豊かにするための
産業をさがしていました。
 そのころ、万代家の「延寿返魂丹」は、妙薬として備前地方はもと
より西国各地に知られていました。その評判を聞き知った正甫は、「延
寿返魂丹」の薬方(調薬の方法)をもとに薬を作らせてみました。す
ると、評判通り腹痛によくききました。そこで、「富山反魂丹」として
薬種商の松井屋源右衛門に製造させることにしたのです。それを、行
商人の元祖・八重崎屋源六に諸国へ行商させました。
 このようにして「富山反魂丹」がうまれたのですが、どうやって家
伝薬の「延寿返魂丹」の作り方が伝わったのでしょう。これにはいろ
いろな説があります。富山では、十一代常閑が富山へ出向いて製法を

教えたことになっていますが、常閑が富山に行った記録は
残っていません。また、正甫の家臣の日比野小兵衛が伝え
たという説もありますが、年代的にあわないところがあり
ます。いずれにしても、万代家文書によると「延寿返魂丹」
が「富山反魂丹」のもとになったのは確かです。
 富山藩では、反魂丹の品質が悪くならないようにするた
め反魂丹役所を設けるなど、藩をあげて売薬に力を入れま
した。
 このようにして、越中富山の薬「反魂丹」は全国的に有
名になったのです。その売薬の方法は「先用後利」といい、
行商人が各家庭にいくらかの薬を置いておいて、次に訪
問したときに使用した分の代金を受け取るというやり方で

挿絵
挿絵

した。またその時、不足したものを補充したり、古くなっ
た薬を新しいものに取り替えたりします。同じような方法
は、万代家でも「大庄屋廻し」という売薬の方法で行われ
ていました。また、備中地方(現、総社市)でも備中売薬
が広まっていました。
 江戸時代後期に、この配置売薬は全国各地に広まり、第
二次世界大戦のころは、海外にまで「置き薬」として広ま
っていました。
 富山では、江戸時代に日向山妙国寺に「反魂丹元祖浄閑
翁」の石碑を建て、木像を本堂におまつりしています。そ
して、現在でも毎年六月五日頃「常閑まつり」(浄閑翁御報恩祭)を行い、
その徳をたたえています。

おわりに

 このように万代常閑は、日本売薬の始祖としてあがめら
れ、その薬「返魂丹」は、多くの人々を救ったのです。
『あまねく人々に尽くす心』で益原を基点に活躍し、地域
の人々に尽くしてきた常閑の精神を、わたしたちは後世に
語り伝えていきたいものです。

「万代常閑翁記念碑」
  昭和十年十一月二十日建立
  学習院長荒木寅三郎氏の揮毫になる石碑が、
 益原八幡宮参道中腹に益原を見守るように
 建てられています。

原案 大森直徳
文  上野幸子
絵  金光文子

挿絵
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